「冷蔵庫のはじまりの終わり」


三年とちょっと前、僕はアメリカの神学校に留学することを決めた。
当時のことを思い出すと、割と葛藤があったように思う。
その頃、僕のまわりには親しい仲間たちがいて、
毎日がとても楽しかったし充実していた。
神様の話を現在進行形で伝えている相手が何人かいて、
それが途切れてしまうことを心配してもいた。
さらに言うとアメリカという国のイメージは、
なぜか僕にとってはかなり悪かった。

それでも、そこに留学を決めたのにはやはり理由がある。
日記の中でも何度かほのめかしてきたけど、
基本的に日記は軽い感じで、毎日みんなが何の気なしに、
パッとみて気晴らしになるものにしたかったので、
あんまり詳しく書かなかった。
が、今正直に書こうと思う。

一つ目の理由は、当時がすごく充実していたので、
なんか逆に全部捨てて違う所に行きたい衝動があったのだ。
日本で神学校に行けば、勝手知った国だし、
人とのつながりがあるから、うまくやれる嫌な自信があった。
僕はちょっとしつこい程に自信家で、
傲慢さには定評のある人間だったので、
「僕はこのままではこのままだ」という危機感があった。
だから、知らない国に行けばきっと神は僕の思い上がりを
何とかしてくれる気がしていたのだ。

二つ目は、アメリカが好きじゃないということが理由。
僕は四歳以前に一時期アメリカに住んでいたけど、
残念ながら幼すぎてほとんど記憶に残っていない。
ということは、ほとんど僕は彼の国について知らないのだ。
日本で手に入る情報だけで勝手に嫌いになるのは不公平だ。
クリスチャンであって、全ての人を愛そうと宣言するなら、
このままではいけないと思った。
少なくともある程度の期間その土地に住んで、
自分の目で見て、耳で聞いて、
その上で愛するものになりたい、と思ったのだ。

ということで、実際来てみたわけだが、
来てすぐに色々言うのはやはり不公平なので、
三年ちゃんと終えてから結果を書くことにしていた。
で、今その時がきたので書く。

まず自分の高慢さに関してだが、
ある点では予想通り、いやそれ以上の効果だった。
まず、この国では僕には文脈が全くない。
まわりの人間は誰も僕を知らないので、
僕は僕でしかない。
まんまで判断される。
見たまま、聞いたままで僕は計られる。

そして、英語もあまり話せないまま行ったが、
これも効果抜群だった。
僕は話すことに関してはかなり自信あったが、
もう無残なばかりにその自信は打ち砕かれた。
自分の伝えたいことの半分も伝えられない。
頭にある概念を言葉化できないし、
やっている間に置いていかれるのだ。
言葉がかなり重要な世界の学びなので、
より一層僕のダメっぷりは大きかった。

日本にあった僕の付随品は一旦なくなった。
僕はそのまんまになった。

とはいえ、これだけではなかった。
それが神の粋な計らいなのだ。
僕は他に何もない状態に実際なってみて、
神の前に立った時にも文字通りの、
そのままの自分を見られるようになった。
僕は謙遜ということの意味を知ったのだ。

ちょうど僕は、謙遜ってのは何なんだろう、
ということを長いこと考えてきたが、
今になって分かった。
一般的に謙遜ってのは自分を低めることの意味だろう。
クリスチャンとしての僕が見つけたのは、
神の前に立って、自分の真の姿を知るという意味なのだ。
人間は基本的に卑屈か傲慢かのどっちになる時が多い。
時として卑屈に傲慢だったり、傲慢な卑屈だったりもする。
卑屈ってのは、自分を実際以上に下げて、自分を諦めること。
傲慢は、自分を実際以上に持ち上げて、自分を神にすること。
謙遜とは、神の前に、人間がその価値を見出すことだ。
神の前に人間は尊い。(と聖書にある)。
そして、神の前に自分のちっぽけさを人は知る。
それは卑屈でも傲慢でもなく、本来の自分、
そのままの姿をただ受け止めるのが謙遜なのだと思う。

…断っておくが、僕は別に謙遜になりました。すごい!
ということを言いたいんではない。
(言ったら今でも傲慢なのがバレる)
ただ、謙遜ってそういうことのなのだ、と思ったのだ。
僕にとってそれはとても大切なことだった。

三年いたが、僕はアメリカを特別好きにはならなかったし、
アメリカという国を愛するようにもならなかった。
というか、そういうもんではないと思うようになった。
前から頭じゃ分かってたことだし、
今更その結論かよ、と言われるかもしれないが、
結局どの国にも自分にとって好意を持てる相手も、
持てない相手もいるのだ。
人は一人一人違うのだ。

とはいえ、もちろんそれが結論ではない。
外の世界に出て、日本のいい所も悪い所も見えた、
という話でもない。
実際、アメリカと日本に対する見え方は、
来る前も今も大差はない。

僕にとって重要なのは、相手に好感を持てようが持てまいが、
それでも愛しなさい、というのが神の思いだと、
僕が今、信じていることだ。
愛するって、「相手が幸せに生きるために、
自分の持てる全てを注ぎ込むこと」だと思う。
僕は神に好意を抱かれる生き方をしていなかったが、
神は僕を愛していた。
イエスが愛したように、僕もそう生きたいと僕は思う。

もう一つ重要なのは、他の所でも書いたけれど、
国って結局は人間の集合体なのだと思う。
僕は日本に生まれ育ったので、
日本をめちゃめちゃ愛しているけど、
それに関して僕は後ろめたさはない。
神がそこに僕を置いたのだからそれでいいと思う。
でも、それで、他の国の民を愛さない理由にはならない。

聞いたようなセリフで申し訳ないが、
国籍も、民族も、言語も、性別も、肌の色も、
神と僕と人との愛の関係に割って入る力も権利も全くない。
いや、そんな大きな組み分けも飛び越えて、
一人一人の人間が愛のうちにあるべきなのだと僕は思う。

国も、民族も、言語も、性別も、肌の色も、
思想も、先入観も、全ては確かに存在している。
この地上に生きる限り僕はそれを無視して生きることはない。
が、それはそれとして、
僕は僕として、これから行くどの場所でも、
神と共に愛に生きるのだ。
それに何も変わらないということが、今は分かる。

あまりまとまりはないが、まとめなくてもいいと思う。
地上の命ある限り、僕のこの地での人生は続いていくのだ。
これからも、過去になる時間の全てが、
勝手にまとめになるだろう、と今思う。



冷蔵庫の中身トップへ
しょんぼりマユゲ表紙へ

[★高収入が可能!WEBデザインのプロになってみない?! Click Here! 自宅で仕事がしたい人必見! Click Here!]
[ CGIレンタルサービス | 100MBの無料HPスペース | 検索エンジン登録代行サービス ]
[ 初心者でも安心なレンタルサーバー。50MBで250円から。CGI・SSI・PHPが使えます。 ]


FC2 キャッシング 出会い 無料アクセス解析