2001年中国の旅

<前置き>
当時書いた原文をほぼそのまま載せます。(改訂するのめんどくさい)
今読み返してみると結構面白い(自画自賛)。考古学青年の視点って感じの文章。
スペシャル感謝 to 宮里氏(写真とか原稿とかわざわざ送ってくれた)。


はじめに


これは学部三年の鈴木光が,早大シルクロード調査研究所の新疆踏査に同行させていただいた際の経験を書いた私的な旅行記です。
岡内先生はじめ貴重な経験を与えてくれた皆様にここで感謝いたしますと同時に,貴重な経験をかような拙文にしてしまったことをお詫び申し上げます。

一日目 「2001年4月26日」

 前日の夜、慌しく荷造りを済ませた僕は、絶対何かは忘れているのだろう、 と漠然と思いながら家を出た。日暮里で稲葉さん(以下ラルゴ)と出会い一緒に特急で空港へ向かう。 成田に着くと、すでに先生、宮里氏、椎名さん(以下のび太)が先に着いている。残るは中条氏だけである。 少し遅れてスカイライナーに乗り損ね、悲しげな瞳で氏がやってくる。  無事みんなそろって搭乗。まずは上海へ。

12:10 上海浦東空港に到着。タクシーに乗って新綿江大酒店に向かう。 のび太は「酒屋かと思った」そうだが、無論ホテルのことだ。きれいなホテルだった。

15:30 上海博物館にやってくる。
非常に豊かな所蔵品。青銅器、陶器、書画、民族衣装、貨幣など多岐にわたる。 個人的には青銅器の楽器の数々や、その使用復元の展示に興味が引かれる。 また陶器展の魂瓶は実物を見るのが初めてで、その美しさにしばらく見入ってしまった。


<魂瓶 〜コンピン〜>

16:50 つまらなそうにダラダラと歩き回っていたガードマン達が、すさまじい手際のよさで客を追い出し始める。 17時閉館なので、早く帰りたい気満々らしい(商売っ気0%)。売店ですら電気を消す。帰りは地下鉄に乗る。
地下鉄は想像以上にきれいだ。道路は慢性的に渋滞らしいので地下鉄はとっても便利。

18:30 ホテルの近くのお店で夕食を食べる。店名は忘れた。 看板に「正宗」とあったので、それかと思っていたが、「元祖」の意味らしい。
食事が終わると、ホテルに戻り明日の打ち合わせをして解散。


<上海の夜景>


 

二日目 「2001年4月27日」

朝食はホテルのスカイラウンジ。なんかゆっくり回転していた。 「すごい、いい所だな。」と思っていると、前に座る中条氏が「今のうちだけだ、今のうちにいっぱい食べておけ。」とボソッと言う。

8:30 ホテルを出発し東方明珠塔に向かう。塔の中に博物館があるらしいので、 最初に博物館の名をタクシーの運転手に告げる。その名も上海歴史博物館。
昨日行った上海博物館に連れて行かれる。予想通りの間違いである。 色々あった末、東方明珠塔であると知ると、運転手は文字通り地団太を踏んで悔しがる。 実際に人間が地団太を踏むのを見るのは初めてだ。全身で感情を表す国民性なのだろうか。

9:00 東方明珠塔に到着。簡単に言うと上海の「東京タワー」である(ゴメンナサイ)。 日本語の解説のしおりを手に入れるが、あまりにもアバンギャルドな日本語なので理解に苦しむ。 高さ468メートル、アジア最大、世界3位の塔だそうだ。
チケットを買って中に入って悲しい事実を知る。上海歴博はまだオープンしていないそうである。「地球の歩き方」には「2001年から新たに見学できるようになった。」とある。 塔のスタッフは笑顔で「来月オープンです。」と(英語で)教えてくれる。まあ来月も2001年の内だからな…。
仕方なく塔に登る。東京タワーと同じで上に行けば行くほど金の取られる仕組みだ。我々は一番下の球状のホール(高さ90メートル)に行く。宮里氏は「下の玉」と名づけていた。 黄浦河を下に見下ろす。上海を東から一望できる。大都市である。マンションのベランダが見える。どの物干し竿も、壁から垂直に飛び出ているのがすごく気になる。どうやって取り入れているのだろう。

12:00 上海虹橋空港着。浦東空港が成田のような国際線中心の空港。虹橋空港は羽田のように国内線が主である。 まだ完全に分化は行われていないらしい。チェックインして中で待つ。松た○子のポスターがあると思ったら、 フェイ・○ォンという歌手だった(ほんとゴメンナサイ)。携帯電話の宣伝ポスターだった。 中国では回線ひくより楽なので政府主導で携帯電話が普及している。やがて飛行機は飛び立つ。

19:30 ウルムチ空港着。日本から上海より飛行時間は長かった。外では北京大学留学中の後藤氏が待っていた。 環球大酒店に行く。荷物をおろしてから食事。
新疆考古局の副所長イデリス氏。研究員であり明日から同行して下さるイリ氏、アクバル氏と共に食べる。 食後、支払いの仕方で皆さんは色々話しているが、学部生はいても邪魔なだけなので、バザールに行く。 キョロキョロして帰ってくる。


<ウルムチのバザール片づけ中>

三日目「2001年4月28日」

朝、起きてみると窓の外が白い。雪だ。
今日からは、昨日合流された長澤先生(シルクロードのスペシャリストだ)も一緒だ。

10:15 マイクロバスに乗って出発。まず近くの牛肉麺(ニューローメン)の店で食事。 ラーメンのようなものだが、独特の酢醤油で酸っぱい。
ウルムチをでてしばらく行くと、唐代の故城跡の横目に通過する。雪のためほとんど見えない。
さらに行くと、発電用の風車群が見えてくる。天山山脈の谷間であるこの地では風車は非常に有効である。今日も風は強い。
30分後、塩の湖を通過。しようとした所で料金所。なぜか止められる。どうやらあまりの風の強さのため一時通行止めになったらしい。今向かっているトルファン盆地は天山に囲まれた盆地なので、山から吹き降ろす風が強い。 特にこの時期は大風が吹くようだ。近くのみやげ物屋に一時避難する。


<風車の群れ → 塩湖>


13:40 通行止め解かれず、今日中のトルファン行き断念する。
近くの食堂で昼食を食べることになる。アクバルさんが店を見て回ってよさそうな所を選んでくれる。 店に入るとテレビがあって、人が殺されまくるすごい映画が流れていた。 みんな口には出さないが「なんじゃこりゃー。」と心で叫んだに違いない。
どうやらVCDというCDを使ったビデオらしい、DVDのようなものだろう。いかにも田舎っぽい所だが、 こういうものは普及しているみたいだ。

17:25 予定は変更され、昌吉文物博物館に行く。 ウルムチの西北にある都市、昌吉の博物館。周辺遺跡の遺物が展示されている。 陶器製の枕が心に残る、上海博物館にもあったが家の模型の形をしている。 こんな硬いもので安眠できるのだろうか? 後藤氏に聞いてみると、副葬品なので展示品そのものが使われたかはわからないが、実際にこういう枕はあったようだ。


<かたそ〜な枕>

ミイラも二体あった。中国語の簡体字文章を見てみる(読めないが字面から)と、金山の採掘関係の人らしい。 先生が隣に採掘用具の遺物が展示されていることを教えてくれる。

19:15 環球大酒店に戻る。
 

四日目 「2001年」4月29日」

朝起きてみると、今日は晴れている。
出発して、昨日も通りかかった唐代の故城跡に来る。 雪がかぶっていないので確認できる。かなり残りのいい壁の様子がわかる。近くにもう少し大きいのがあるそうだが先を急ぐ。

11:50 風車群を越え、塩の湖を通過していく。湖には塩の塊が浮いているのが、はっきりと白く見える。 さらに進むと不毛の砂漠にさしかかる、昨日の風のせいで土埃が激しくあまり遠くは見えない。 温度が上がると、竜巻が起こったりするそうだ。

12:15 トルファンに近づくと葡萄乾燥小屋が見えてきた。
すぐトルファン市内に入る。緑州と称されるオアシス都市だ。街はウルムチにもまして緑が豊かで気持ちがいい。

12:40 トルファン博物館に到着。トルファンは有名な遺跡が多くある。ベゼクリク千仏洞、アスターナ古墳群、高昌故城、早稲田と中国共同調査の行われた交河故城などなど。
博物館展示の遺物もやはり幾つかの遺跡からの遺物だったが、アスターナのもの以外はかき集めてきた印象を受ける。カタログを購入してみて見ると241の所蔵品が記されているが、展示品はかなり絞られているようだった。アスターナ出土の俑がかなり充実していた記憶がある。餃子や乾燥梨の出土したものが展示されていた。1000年以上も食物がはっきり形を保っているのに驚いた。

13:40 昼食。かなり遅い昼食と思われるかもしれないが、新疆は公式には北京時間で動いているが、 実質的には北京と2時間の時差があるので現地の感覚では12時前だ。
食後ホテルに向かう。ホテル内に土産物屋があり、ラクダが客寄せにつながれていた。 来る途中で走り回る野生のラクダを見ていたので、つながれている姿が痛々しく映る。荷物を置いてすぐ出発。

15:35 交河故城に着く。ウイルグ語でヤールホトと言う。「崖城」の意味を持つその名の通り、高さ30mの断崖の上にある城と城下町。 南北約1km、東西約300mのスペースに、南から北に住居区、官庁区、寺院区、墓地の順に区画されている。
ユネスコによって整備されレンガ道が敷かれていた。住居は崩れてはいるが部屋の形やかまどの跡は割とはっきり見て取れる。 井戸も幾つか見られたが、危ないので埋められていた。
官庁区に入ると壁が高くなり、住居区より建物一つ一つが大きい。 高い壁にはさまれた街路(英語でstreetと書いてあった)を歩くと、今もまだ使われている街のように感じる。
寺院区はだだっ広く点々と寺院が立っている。その背後には地下寺院の(現代の)管理小屋と、 新しい時代の墓のマウンドがちらほら見えるだけだ。

17:10 故城の溝北墓に着く。故城の北と西にはそれぞれ墓地がある。 その一つ溝北墓には民家を通り抜け、畑の裏から傾斜の比較的ゆるいルートを登ってたどり着いた。
見てすぐにそれとわかる、盛り上がった墓のマウンドが幾つかある。それぞれに、動物の陪葬墓、家族の陪葬墓がまわりにある。
見て回っていると、のび太がニコニコ顔で駆け寄ってきた。 トカゲを捕まえたのがうれしくて、見せに来たらしい。すごくうれしそうだ。 砂漠のトカゲは地面と同じ色合いをしているので、見つけにくい。ある意味たいしたものである。

帰りがけに傾斜を歩いていると、葡萄乾燥小屋があったので写真を撮りに行こうとした。 西の墓地に腐るほどあるから今撮る必要無し、と言われる。戻ろうとしてふと左を向くと傾斜にポッカリ穴があいていた。
何かと聞こうとしたらもう行ってしまっていたので、一人で恐る恐る覗くと、中は小さな空間になっていた。 奥は左右と中心の三つの部屋に分かれている。真ん中の部屋に入ると壁には仏画が描かれていた。 顔の部分は消されている。イスラムの侵入時に消されたのだろう。置いていかれると嫌なので、左右の部屋は確認せずに出た。

18:10 故城の溝西墓に着く。早稲田と中国の共同調査の中での、1996年の金冠の発掘は大きな成果の一つだが、 その現場がこの溝西墓である。今回はここで日干しレンガを採取し、含まれた植物遺存体を取り出して持ち帰るという計画がある。
後藤氏と中条氏は南のほうへ、残りの人間が北の方へ行きそれぞれ調べることになった。
溝北墓に比べると小さいマウンドが大量にある。去年ずっと整理していた図面の土地なので親しみを感じる。 たいてい数個〜十数個のマウンドがセットになって、榮域(えいいき)と呼ばれる小石を並べて区切られた領域に置かれている。 その榮域がまた何十もあるのだ。 マウンドは本来全体を石で覆われているのだが、ほとんどが盗掘を受けており、入り口付近の石だけ取り払われている。
墓誌から年代の分かっている墓から日干しレンガをとろうと考えていたが、残念ながら残っていなかった。 南のほうの二人は一塊手に入れていた。二人との合流地点の辺りに金冠を発掘した墓がある。 先生が「これがそうなんだ」と懐かしそうに言ったのが印象的だった。
南のほうには葡萄乾燥小屋がたくさんあった。今は時期ではないので使われていないが、 風通しのため小屋の壁は格子になっているので、中が覗ける。中には葡萄の房をかけておくための柱が幾つか置いてあった。
飛行機の中でも出たが、こちらの干し葡萄は小屋での陰干しなので緑色の干し葡萄ができる。 味は日本に普通にある紫色の干し葡萄と大差ないけど。

20:00 トルファン市のバザールをみてまわる。どこの街のバザールも基本的には日用雑貨品を売る店がずらっと並んでいる形式だ。宮里氏とぷらぷら歩いていると、服や下着の売っている一角にやってきた。ストッキングが大量にぶら下がっている。まさに「手にとってご覧ください!」状態である。「すごいですね…。」「ああ…。」と言う会話をしたりしながら帰る。

五日目「2001年4月30日」

今日は遥か西の都、輪台に向かう。荒野を10時間近く走りつづけるのだそうだ。

9:35 右手に烽火台(連絡用に使われた狼煙台)が見えてくる。 烽火台の上には男が一人座っていた。この砂漠を移動していると、少なからずこういう人達に出会う。 すなわち「あんた一体どっから来て、どこへ行くんだ!?」と言いたくなる人達だ。 なにしろ周りには車など移動手段となるものが見当たらない、にもかかわらず何も持たずに一人でフラフラしてるのだ。不思議だ。

10:40 岩山に囲まれた谷間に入る。ウイグル人はアルボラックと呼び、 漢族は「干溝(干上がった川)」と呼んでいる。実際、切り立った岩壁に挟まれたこの谷は水が流れていない。 谷に入ってすぐの辺りでは岩山の上から砂が落ちてきて部分的に覆っていた。岩壁の上はまた砂漠なのだという。
悪路ではあるが、聞かされていたほどひどく感じない。長澤先生が教えてくれるが、1988年に先生が朝日新聞主催のローラン調査に行った帰り道、それまで無事だった20台のパジェロのうち4台がここでダメになるほどの悪路だったそうだ。「今は整備が進んだな。」とおっしゃっていた。そのまた昔のヘディンが旅した頃は、道なき道を進んだそうだ…。偉大なり、ヘディン。

13:35 谷を抜けてしばらく行くと、塔哈其という街に着く。 看板に「西瓜之郷」と書いてある。いつわりなくスイカが売っていた。大喜びで食べまくる。
この辺りは街道沿いに街が頻繁に(10分おきくらいに)ある。どの街の道も両脇に防風林が立っている。 遠くからでも木が固まって黒く見える点が見えるので、あれが街だなとわかる。

14:17 アルカリ土壌帯を通る。白いもので覆われた土地があらわれた。 地中にあるアルカリ成分が染み出てきている。いわば塩の塊が地面を覆っているのだ。 この状態になると作物をつくるのが大変になる。大量の水で流せばいいのだそうだが、 流した所が塩まみれになるのだから結局同じことだ。

14:55 天山から流れ、コルラに至る開戸川を渡ると、カラシャールの街に着いた。 一時間前に食べ過ぎたスイカのせいで、膀胱が破裂しそうになる。泣きそうになりながらトイレに駆け込むが、 泣きたくなるほど汚いトイレだ。
さわやかな気持ちで拌麺(バンミェン)という焼きうどんのようなものを食べる。

16:35 ボストン湖を通過。BostonではないBostenである。
20分後、クンチダリアンを渡り工業都市コルラに入る。クンチダリアンとは、 一般的にクーダリア(あるいは孔雀川)と呼ばれる川である。アクバルさんの発音が僕には「クンチダリアン」と聞こえた。
コルラは石油工業都市。煙を出す高い煙突が見える。また、カシュガルにまで伸びる鉄道の線路もここから始まっている。

18:15 山羊の群れが道を横切る。
山羊や羊の放牧はよく目にする。車の窓から見ただけでは、山羊と羊の区別は僕には全然つかない。 宮里氏曰く「ヒゲがあるのが山羊。角の断面が三角なのも山羊」。ヒゲはいいが、どうやって角の断面を見ろというのか?
30分後、ジャディール大橋に着く。このジャディール川を南に30kmほど行った所が、 西域都護府の屯田村があると考えられている場所なのだそうだ。

19:45 輪台に着く。都護府ホテルが今日の宿だ。
実に十時間近く運転手は一人で運転しつづけていた。しかもそのドライビングテクニックはかなりのものである。 名前はクォさんと言った。手の甲に黒い染みのようなマークをつけている、刺青だろうか。 後に街の子供にも同じものを認めたが、結局なんの意味があるのかわからずじまいだった。残念。


<走りまくった色々な荒原の様子(一番最後のは廃墟つき)>


夜。学生達で宮里氏の誕生日を祝う。「祝う」と言う割には宮里氏に半生を語らせるという、 本人にとっては何ともありがた迷惑に違いない会だった。話はすごく面白かった。

六日目「2001年5月1日」

朝、8:25。起床集合時間は8:30である。同室の宮里氏共々寝過ごしたらしい。 慌てて5分遅刻でロビーに行くが、アクバルさんたちが20分遅刻してきたので、我々が責められることはなかった。

10:20 さらに西に位置するクチャに向けて出発。
一時間後、バスの中を見渡すとみんな熟睡している。そろそろ疲れがたまってきたようだ。 中条氏はバスで過ごすほとんどの時間寝ている。夜も寝ているそうだ。日本にいる時よりよく寝られると本人は言っていた。 不思議な人だ。

11:44 トクタム故城に着く。トクタムはウイグル語で「古い壁」の意味だ。
崩壊した砦と、100mほど離れて烽火台もある。まず烽火台から見ることにした。
前にも短い説明をしたが、烽火台というのは昼は煙(いわゆる狼煙)、夜は明かりを主に使用して連絡を送るための建造物だ。 高さで6〜7mくらいだろう。日干し煉瓦を積んで、泥で固めてつくられている。直方体の胴部にスロープが風化しながらも、なんとか残っている。
スロープを登って周りを見渡してみる。かつてはこうした烽火台が距離を置きながらずっと並んでいたはずだ。 けれども今は見当たらない。砦があり、烽火台があるのだから、ここは屯田していた兵士達がいたわけだが、 上からみてもアルカリ成分の浮いた荒れ地が広がっているようにしか見えなかった。
烽火台から砦へ歩いていく。アルカリ土壌は非常にもろく、足跡もかなりはっきり残る。
こうしてアルカリ土壌になるということが、以前に耕作していた証拠なのだろうか? 聞いてみるが、そんなに単純なものでもないらしい。
砦はほとんど崩れているが、壁が部分的に残っていて外形はおおよそつかめる。 おそらく入り口であったと思われる所から中に入ると、奥の方にかまどの跡が残っていた。 うっすら残っている壁をたどってみると、そこが厨房として一つの部屋をなしていたことが分かる。 砦や烽火台の周りには動物の骨が落ちていたから、食料として消費されていたのだろう。土器のかけらも容易に見つかる。

12:30 出発。天山の南端を北に見ながらバスは走る。 約一時間後クチャ県に入り、亀茲賓館というホテルに着く。 クチャは漢代からは亀茲、清朝から現在までは庫車と表記されている。荷物をおろしてしばらく休憩。16時出発の予定だ。

16:52 スバシ故城に来た。故城といっても仏教寺院の遺跡である。 東区と西区に分かれるが東区はあまり一般に公開されていない。今回も行くことはできなかった。
西区は東西に170m、南北に685mほどの地域に伽藍、仏塔、僧房、石窟などが立ち並んでいる。 もちろん風化しているので、完全な形で残っているものはない。
南から入るとまず一番大きな伽藍が目に入る。ここスバシは『大唐西域記』で玄奘がたちよった昭怙釐伽藍にあたるとされている。 もし事実なら、この大伽藍にも実際足を踏み入れていたのだろう。 大伽藍は壁の残りもよく、木の柱をはめ込んでいた縦の溝もはっきり見える。 ここに柱を立て、板を渡してレンガ積みの壁を支えていたようだ。 溝と溝の間の長さを測ると、どれもほとんど一定だった。統一規格で作られていたのがわかる。
僧房の建物の中にはかなり部屋の形をとどめたものがあって、中に入るとその空間を感じることができる。 当時の僧たちは何を考え、何を求めてここで生きていたのだろう。

19:38 ホテルに戻ってくる。
夜。今度は先生主催で宮里氏の誕生日を祝う。途中で偶然同じホテルに居合わせた、元考古学協会長・大塚先生が参加される。 貴重なお話を聞く機会を得た。

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