「死の表現」


*当文は冷蔵庫の中身2004年2月4日の日記の追記です。
思ったことをまとめずに書いてあるので、結論もないです。
言いっぱなしですので「だから何?」を覚悟して読んでください。
(その後、徐々に加筆中。3月15日に4を加筆。7月10日に5を加筆

<思ったこと1>

とあるゲーム雑誌でトールキン(指輪物語の作者)に関する面白い記事を見つけた。
ここに一部引用してみたいと思う。

…いったいどこからトールキンはあのエルフという存在を思いついたのだろう、と。
それまでの西欧における妖精の伝統から、かなり外れていることだけは間違いありません…(中略)

上記のドキュメンタリーにおいて、僕の疑問の一端は解消されました。
そこでトールキンは明確に述べていたのです。…(中略)
『エルフの一族は不老不死として描かれて入るが、そこが本質的なのではない。
いや、正確には彼らは「不死」とはいえない……なぜならエルフは
確かに死ぬことができる。ただ、「自然に死ぬ」ことがないだけなのだ。
エルフにとって「死」とは常に「異常な死」――「事故死」であり
「惨劇」なのだ、』と。

(中略)…世界大戦の帰還兵士たるトールキンにとって、「死」とは
同世代の友人らの死……「若く美しく前途有望なる者たちが突然に死ぬ」
ことだったのです。
彼はけっして、不死の美しきエルフについて書いたのではなかったのです。
彼が見出したのは、「死すべき定めの人間族」と「事故死する定めのエルフ族」
という対比でした。いってみれば、トールキンのエルフとは「人間」のこと…(中略)
いったい、彼の作品群に魅せられた凡百の追随者たちの中で、人間と世界の運命に
ついてここまで深く傷つき、悩み、そして回答を提出した作家が幾人いたでしょうか…
(引用:柳川房彦=新城カズマ「若き人々のための架空世界設計講座」『RPGamer vol.4』国際通信社(日本)2003)


なるほどねえ、と思った。
トールキンの研究者は多いし、僕もいつかは深く調べてみたいと思っていたけど、
こういうのを読むとますます興味がわいてくる。
ちなみにこの記事では、言語学に関しても考察がされているので、それもすごく面白い。

<思ったこと2>

この記事を読んで僕が思い出したのは、手塚治虫(すげー!「おさむ」で一発変換された)の
「火の鳥」の中で、撃たれても焼かれても、焦げて燃えカスのようになりながらも死なない鳥のシーン。
子供心に、すごい不安感と気持ちの悪さを覚えたのだが、
今思うと、「死なない」ということの異常さに幼い僕は恐怖したのだと思う。
人は死ぬものである。

<思ったこと3>

夜、学校から寮に帰る間にハイロ○ズ(バンド名)のある曲を聴いていた。
その歌詞の一部分が妙に面白くて印象に残った。
まとめて書くと、「病気で死ぬのも、痛いのも、苦しむのもヤダから、
一瞬で頼むぜ、即死で頼むぜ」といって、後は「即死」を連呼、というもの。
この「痛いのとか、苦しむのがイヤだから」というのが、
かなり僕的に共感を覚えたんである。

<思ったこと4>

(2004年3月15日記す)
先日散歩していてこういう看板を見かけた。


<DEAD END>

死んで終わり?

本当にそういう意味の看板だったらかなり僕のツボだが、
残念ながら意味は普通に「行き止まり」だ。

これを見て、散歩を続けながらしばらく考え込む。
僕の生きる世界観では死は終わりではなく永遠の始まりだ。
これに関しては僕は科学的実証の方法を全く持ち合わせていないが、
なぜか小さいころから深刻な疑いを持ったことがない。
いわゆる天国とかに関しても「はあ?そらあるだろさ」てな感じだった。

(記憶が確かなら)小学校の時の教科書に井上ひ○しか誰かの書いた、
神父さんが出てくる物語を読んだ時の記憶は今も新しい。
その中で、少年が神父に「天国ってあるんですか?」みたいな質問をする、
返事はこうだ「あるって信じたほうが幸せでしょう?」(どっちもうろ覚え)

僕はこれを読んだ時に、心の中で我ながら面白い反応をした。
こう思った。
「おめー神父なら『ある』ってはっきり答えんかい!」と。

まあ今思うと大人気ない反応だが(爆笑)。

とにかくそういう子供だったので、僕は「ある」と勝手に確信してきた。
悪いが今もだ。
おかげで今も幸せだ。

聖書の死に関する考えを大まかにまとめるとこんな感じだ。

神様に造られた最初の人間アダムとイブは罪を犯した。(*1)
「死んでしまうといけないから食べるな」と言われていた実を食べてしまったのだ。(*2)
結果、人間に「死」が入り込んだ。
「罪が支払う報酬は死です(ローマ6:23)」と書いてある通りだ。
さて、そういうことになったが、神様は別に人間の死が望みではない。
ということでイエス・キリストがやってきた。
彼は言わば身代わりである。
罪が支払う報酬が死なら、先に全員分「死」を払ってしまえばいいわけだ。
で、全員分の死を背負ってイエスは死んだ。
ただ、死んだままだとイマイチ信用できないので、復活してきた。
これで「死」は完全に払い終わったよ、ということが確認されたのだ(領収書のように)。
そして再び人間は永遠に生きるようになるのであった…。


この世での死はこの世での死であって、あの世での始まりだ。
それがつまり僕の言う「永遠の始まり」ということだ。
行き止まりがぶち抜かれた先には永遠があるのだ。(*3)

死は勝利にのみ込まれた。
死よ、お前の勝利はどこにあるのか。
死よ、お前のとげはどこにあるのか。(第一コリント15:54〜55)


*注1…「罪とは何か」はまたの機会に詳しく。…いつになるだろう。
*注2…そういうものは手の届かない所に置こう、という突っ込みは今は脇に置いておく。
*注3…「永遠に生きるのはさすがにちょっとダルくない?」ということに関してもまた今度書こうと思う。

<思ったこと5>

(2004年7月10日記す)
高校時代は休み時間になると図書館で本を読んだ。
何しろお金がないからハードカバーの新刊なんて図書館でなきゃ読めない。
そうして読んだ中で今でも印象に残っているのは二つ。
一つは浅田次郎の『鉄道員』(「ラブ・レター」がすごく印象深い)。
もう一つは梨木香歩の『西の魔女が死んだ』。
特に『西の〜』は児童文学の賞か何かを取っていて、
ずっと興味を持っていた僕は図書館で見つけて小躍りしたのを覚えている。

その本が3年前に文庫本になった。新潮。
例のパンダの携帯ストラップがほしかった僕は、
いい機会だしもう一回読んでみようと思って渡米前に買ってみた。

読んでみて秀逸なセリフのやり取りがあった。
少し長めに引用。

まいは深く呼吸して息を整えた。
「あのね…」
「何だい?」
「覚えてる?パパ。ずーっと前に、わたしが、人は死んだらどうなるのって聞いたときのこと」
「そんなこともあったかなあ。で、パパは何て答えたんだい?」
まいはあきれてしまった。でも辛抱強く教えてあげた。
「人は死んだらそれまでだって言ったのよ」
まいの声がひどく低くて恨みがましく聞こえたので、パパは思わず吹き出した。
「それは、そしたらずいぶん前のことだろうね。そのころはそれが常識だったんだよ。
でも、今は正直に言うと、よく分からないんだ。いろんなことを言う人がいるからね。
最近では、死んだらそれまでっていう考えは、あんまり流行っていないみたいだね。」
信号が青になった。パパは止まった時と同じようにゆっくりとアクセルを踏んで発進した。
「流行っていない……」
まいはぼんやりと繰り返した。
(引用:梨木香歩、『西の魔女が死んだ』、p151−152、2001年、新潮文庫)

高校時代も気になった所だ。もし自分がパパなら何て答えるだろ?
その時僕が漠然と考えていたことを今は言葉にできるけれど(上の<思ったこと4>)
多分流行っていない部類だな…(cf.マタイ7:14)

おわり
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