「戦争と平和…(2)」


<前フリ2>

2004年7月23日追記

さて、「平和」とはそもそも何なのか、ということを考えていきたい。
でも僕の脳内で一人ウジウジと、とりとめもなく考えたことだけではイマイチなので、
「これ、いいんじゃん?」と思った本とかを参考にしつつ、話を進めていこうと思う。

まず取り上げるのはこの本↓。



高柳先男、『戦争を知るための平和学入門』 筑摩書房(ちくまプリマーブックス)、2000年

内容は後で触れていくので詳しくは紹介しないけれど、
大学の講義をそのまま編集したということで、
読みやすく、なおかつ分かりやすい本。
客観性そのものに疑問を持った姿勢(詳しくは下記)で書かれているので、
逆に偏った発言がなく、それでいて鋭く核心に迫る文章で素敵。

ここでは基本的に、僕が考えていく出発点となる文だけを本から引用するだけなので、
戦争や平和、国際関係とかについて興味のある人は、是非自分で読んでみてほしい。

<思ったこと3>

紹介した本のタイトルには「平和学」という言葉がある。
もともとこれは、

「戦争の原因を科学的に研究し、平和の諸条件を科学的に明らかにしようと(p.7)」

するものだったという。
ところが、時を経た現在の高柳さん(著者)の定義は

「戦争の原因を、多くの学問を応用してつきとめ、平和の諸条件を探求する学問(p.12)」

となったそうだ。

この微妙な変化は

「そもそも平和の問題を研究するときに
政治的立場や思想・信条の違いを超えて科学的に、
客観的な役立つ知識を生産することは本当に可能だろうか(p.10)」


という疑問と、それに対する「いや、無理だろ」という反語から生まれました(*注1)

僕なりに分かりやすく言いかえるとこんな感じ↓。

どれだけ中立で公平に考えると言っても、人はそれぞれ生活や考え方が違うじゃないか。
しかも、違っている同士だからこそケンカが起こって、平和がなくなるんでしょ。
だから、「違っている」のを無視したり、「自分は違っていない(?)」と言って平和を考えても、
そもそも無理なんじゃないの?

さらにここからもう一つ言えることがある。
人それぞれ違うということは、当然「平和」という言葉の意味も人によって違うのだ。

では、ここで僕が書きたい「平和」とは何なのだろう?
それは当然クリスチャンとして考えた平和。
あるいは聖書による平和、と言える。

そもそも自分にとっての「平和」が何か分からないと、
それから先の考えが浮いたものになってしまう。
そして、僕は聖書の平和が真の平和を教えてくれる、
という信仰を持っているので、それをはっきりさせたいのだ。

結果として、ここから先の文章は(前に少し書いたが)、
僕の生き方のための基本になる考えをハッキリまとめることと、
これから考えようと思った人のキッカケと考える時間の短縮が目標になりそうだ。

*注…「科学的」とか「客観性」とかは、信仰について考える時にも気になることだと思う。いずれ、これはこれでまとめます。

<思ったこと4 〜平和の意味〜>

2005年1月27日追記

まずは続けて高柳さんの本から、平和学による「平和」の捉え方を見てみよう。

「平和とは何かと問われたときに、平和とは戦争がない状態である、 平和とは戦争の不在である、という答えは間違いではありません。
では、「戦争の不在」イコール「平和」なのでしょうか。 そんなことはありません。戦争がなくても平和ではないという状態があります。 こういう状態を、英語でピースレスネス(Peacelessness:平和ならざる状態)といいます。 たとえば、いま、北朝鮮で多くの人々が飢餓の状態におかれていますが、それは平和ならざる状態です。
「平和ならざる状態」を引き起こすものは社会構造です。国内の社会構造かもしれないし、国際的な社会構造かもしれない。…(p.21-22)」


ここから、まず二つの主な平和を壊す問題が見えてくる。
一つは、戦争を最たる例とする「直接的暴力」。
もう一つは、貧困や差別などを引き起こす社会構造からくる「構造的暴力」。
どちらも独立したものではなく、相互関係のある問題だと思う。
いずれにせよ、この二つの問題を解決しなければ平和は来ないという。

では、逆に言うと、直接的暴力と構造的暴力がなくなれば、「平和」なのだろうか?
おそらく状況・環境的には平和と言えるだろう。
言うまでもなく、それはとてつもなく重要な平和である。
が、あえて突っ込んでみると、たとえこの二つの問題がクリアされても、
個人的・内面的な問題が残る限りは「平和ならざる状態」が続くかもしれない。

かの有名な「ドラ○もん」のキャラクターを例にとって考えてみよう。

ノビ太君は基本的に、腕力にものを言わせる「暴力的支配者」ジャイアソと、
自分の家の小金持ちっぷりを鼻にかける「構造的抑圧者」スネオによって、
毎度のように平和を乱されて便利なネコ型ロボットに助けを求めるのである。
そこで、このネコ型ロボット はノビ太を超法規的手段(四次元ポ○ット)で助ける。
いわば 、問題を解決して平和をもたらそうとするわけである。
結果はケースによって成功したり成功しなかったりする。
が、成功した場合について考えてみよう。
ノビ太は本当に平和になっただろうか?

いや、実際は、相手をこらしめたり、逆に見下げ返したりしたに過ぎず、
彼の周りの状況は強制的に変えられたとしても、彼自身は変わっていないのだ。
つまり、彼が成長過程で育んできた劣等感や消極的な傲慢さは依然として
彼の心を蝕み続けるのである。

さて、この「状況の平和」と「個人の平和」に関して、文化の違いも考慮しなければいけない。
高柳さんが続けて書いている「文化による平和イメージの違い」を見てみよう。
西洋と東洋に簡単に二分化して論じている。

「西洋のほうは、過去にさかのぼると、セム族(アラブ人)の言葉に「サラーム」という言葉があります。それから、「シャローム」というヘブライ語があります。どちらも、安定した非常に良い状態を示す言葉です。ですから、サラームやシャロームは「あなたに非常にいいことがありますように」というあいさつに使われます。
一方、平和を意味する「エイレーネ」というギリシア語は、英語で言う正義(justice)や法に近いイメージです。それから、「パックス」というラテン語があります。「パックス・ロマーナ(ローマの平和)」という言葉は、ローマの市民にとっての秩序を意味しています。これは勝者にとっての平和であって、ローマに併合された民族、奴隷にとっては抑圧が続くことを意味します。だから、奴隷の反乱(スパルタクスの乱)などが起こってきます。
それに対して東洋(ヒンズー、仏教世界)で、平和という言葉で表される意味内容は、われわれ日本人にとって非常にわかりやすいものです。「安穏」つまり自分の心の中の状態に着目した体内的態度にとどまるものです。他者に働きかけるものではありません。インド・ヒンズーの世界では、生きものを殺さない(不殺生)というのが平和です。「シャンティ」という言葉と「アヒンサ」という言葉に示されます。
いずれにせよ、西洋の平和が対他的態度であるのに対し、東洋の平和は体内的態度です。西洋では、「汝、平和を欲するならば戦争に備えよ」という命題に示されるように、軍事力を持つことは否定的な行為ではありません。ましてや、力なしでは秩序を打ち立てるのは不可能です。その過程で、秩序を打ち立てる側と秩序を強制される側の間に戦争が起こります。ですから「正義のための戦争」という概念は、ヨーロッパの政治思想のなかでたいへん重要な概念です。(p.23-24)」


両者はかなり違うというが見て取れる。
特に西洋では他者(他国)との関係の中で自分側の秩序を建てて守ることが重要、
という点に関して、日本人である僕はまず知らなければいけない。

実際、アメリカに住んでいると(特に現在は)、これをよく感じる。
最近は外で車に乗っていると、ほとんどと思わず言いそうなくらい多くの車の後ろに、
「わたしは兵隊さんたちをサポートします」というシールが貼られている。
このシールを買うと、その売り上げの一部が軍に届くのだそうだ。
僕の想像では、この行為の背後には、
「兵隊さんたちが戦地で戦ってくれているから、
わたしたちが平和に過ごせているのだからサポートしなきゃ」
という一般アメリカ人にとっては至極自然な感情があるのだと思う。

アメリカ外の国民である僕の個人的な感情では、
「その平和のためにアメリカ外では平和でない人がたくさんいるのですが、何か?」
みたいな感じがするわけである。

先日、ルームメートのクリスと車に乗ってて、
「あ、前の車もあのシール貼ってるね」というと、
「うん、軍を支えることは大事なことだと思うよ」と言われた。
クリスと僕は個人的に仲がいいし、僕は彼を気に入っているが、
だからこそ、「これが文化の違いか!」と驚いたものである。

西洋文化というかアメリカ文化を頭ごなしに全否定したいわけではない、
ただ、そのままの考え方だけでは世界状況は平和にはならないのは確かだろう。

さて、まあ文化の違いはとりあえず置いておいて、
上で引用した文章の中で少し気になった所はなかっただろうか?

僕(クリスチャン)には馴染み深い「シャローム」が出てきたのだ。
しかし残念ながら説明は「安定した非常に良い状態を示す言葉です。」だけで終わっている。
高柳さんは西洋の枠組みにこれを入れて考えているが、
ここで僕はあえてこれを第三の立場、つまりクリスチャンの立場(文化)として、
独立して考えたいと思う。
そう、聖書に出てくる平和(シャローム)の意味が「法と秩序」でも「安穏」とも別な、
クリスチャンの価値観として考えてみたいのだ。

*注…高柳さんはこれらの意味の他に「パクタムとサブシステンス」
という非常に興味深く重要な捉え方を紹介している。ぜひ読んでみるのをお奨めする。


つぎのページへ続く…。



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