「戦争と平和…(4)」


<思ったこと6 〜キリストの平和、その二〜>

2005年12月29日追記

続いて21〜23節いってみよう。
次のように書いてある。

イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦されなければ、赦されないまま残る。」

早速21節から「平和があるように」が出てくる。
だが、今回はさらに一言後ろに加わっている。
「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」

一回目の「平和があるように」は、
引きこもりの弟子たちに「外を恐れるな、
存在は保証されている」というものだった。
二回目のこれは、さらに一歩進んで、
「あなたがたを(外に)遣わす」と言うのだ。

つまり、「外の世界を恐れるな」だけでなく、
「そこに遣わすよ。そこに行くんだよ」ということだ。

これはクリスチャンのわりと多くが一度は味わうであろう感覚だが、
「もう、いいから、早く天国行きたい」というのがある。
永遠の存在保証なのだから、死は恐いものではないので、
(痛いのは嫌なんだけどね。)
むしろ、この世界でつらい思いしていきるより、
幸せそうな天の国に行った方がいいんじゃないの、
というのが信仰者ならではの発想としてあるのだ。

たとえ命が保証されていて、平和があったとしても、
生きている限り人間は悩みが出てくるし、嫌な思いもするわけだ。

そうなるくらいなら、この世界で生きている間は
とにかく身をかがめて早く終わるのを待つだけ、
自分の世界で適当に楽しんで、嫌な思いをするかもしれない
世界にはなるべく無関心でいたい。
そう思うこともあり得るかも知れない。

で、弟子たちは文字通り身をかがめて隠れて過ごしていた。
が、イエスは「外(この世界)に行け」というのだ。
言い換えるなら、この世界で生きろ、というのだ。

「お前ら、あとはこの世界で消化試合をこなすがいい」とか、
「適当に生きて早くこっちにきなさい」とは言わないのである。
この世界にわたしはあなたを遣わしているんだ、というのである。

でも、これは冷静に考えるとかなり恐ろしいセリフだと思う。
何しろ三日前に彼らは凄惨な十字架刑を目の当たりにしている。
ムチで打たれて、侮辱され、つばをかけられ、
仲間に裏切られ、十字架で無実の罪で死刑執行。
その人に「お前らも行け」というのだが…。
誰が行くか!?

たとえ、存在が保証されていても、嫌なものは嫌である。

しかし、それでもイエスは「平和」と言う。

なぜか?
理由は二つ。

まず第一に、一番嫌な思いはもうイエスがしているから。
彼には少なくともそれを「言う」資格がある。
イエスは誰かの真似をして十字架にかかったわけではない。
彼は後にも先にもただ一度、神でありながら人間のために死んだ者なのだ。(*注1)

死だけではない。
赤ん坊時代から(みんな大好きクリスマス)、
少年時代、青年時代も全て経ているのだ。
人間を経験したからこそ言えるのである。
(別に神だから普通に何でも言う資格はあるのだろうが、
その辺はほら、アレだ、思いやりというか愛だ)

でも、それだけではない。
権利があるから言うというだけではない。
というかむしろ、権利云々は人間側の解釈にすぎない。
もう一つの理由は22〜23節から分かる。

そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦されなければ、赦されないまま残る。」

「聖霊を受けなさい」なのだ。
イエスが息を吹きかけてこう言うのだ。
聖書では「息」や「風」と「霊」は同じ言葉なので、
これはすごく分かりやすい表現なのである。

つまり、イエスは「わたしの霊である聖霊を与えるから、
受け取りなさい。私自身の霊と共に生きなさい」
と言っているのだ。

「さあ、行け」というだけじゃない。
「さあわたしと一緒に行こう」と言っていることに意味がある。

23節のあなたがたが罪を赦すなら云々、
という所もこの続きのセリフであることを理解して考えるとこうなる。
「さあ、行け、勝手にお前らが人の罪を裁いていいぞ、
裁け、裁くがいいわ、ガハハハハ!」
ということを言いたいのではもちろんない。
聖書では常に「人の罪を裁くのは神であって、
人間ではない」と教えてきているのだ。

つまり、ここで言いたいのは、
人の罪を裁く権利を持っている神の霊が、
何とあなたに共にあることになるんだぞ、ということだ。

そして、その神の霊が、イエス個人の霊が(*注2)、
あなたと共に生きる。共にある。
だから、平和に行けるぞ、というか行こうぜ、
ということなのだ。

平和の二つ目。
存在の意味が与えられると同時に、
「神が共にいる」ということ。

クリスチャンはクリスチャンの世界観の中で生きることができる。
それは閉じこもることも可能な世界である。
が、この世界は神に創られ、そこで僕が(神と人と)共に生きる、
ということが神の願いであるのならば、
僕はやはりそうするべきなのだろうと思うし、
そうしたい。

僕は実際おおよそ平和であるし、幸福に生活しているし、
こうして何かに関して発言するのは別に好きでも何でもない、
が、無関心ではやはりいられないのも信じる者だからだろう。
僕がこの世界で生きることが神に望まれることならば、
僕はそこで考え、その平和を働きかけ、生きるのだ。

*注1…聖書の福音の根本です。イエスは人の罪の裁きを代わりに受けた。すでに代わりに死んでいるものがいるので、人は生きる。
*注2…聖書を読んでいくと、世界を創った神(父なる神)と、イエス(神の子)と、聖霊(神の霊・存在の本質)は同じ神だということが読み取れます。これがいわゆる三位一体というやつです。


つぎのページへ続く…。



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