<国の統治者は誰か・王のはじまり>


日本憲法は「主権在民」をうたっている。
つまり、国の統治者、導き手は、
その構成員である人々自身である、ということ。
調べたことはないが、多分現在の多くの国々がそうだろう。
王様がいて、形式上はその人に主権がある所もあるだろう。
日本も明治憲法では天皇に主権があった。

さて、では聖書ではどうなのか?
答えは、やっぱりそうきたか、という答えだ。
神が国々の主権者なのである。
まあ考えてみれば当然の結論になる。
人間を創ったのは神(創世記の最初の方参照)なので、
そうだと言われればそうなのだろう。

詩編22篇29節には次のように書かれている。(*注1)

王権は主にあり、主は国々を治められます。

まんまである。
これがそもそも本来のあり方だ、
というのが聖書の教える所。
が、同時にその前の節(22篇28節)を見ると
もう一つのことが分かる。

地の果てまですべての人が主を認め、御もとに立ち帰り国々の民が御前にひれ伏しますように。

つまり、現状は違うと言うことである。
主権は神の手を離れてしまったのだ。

国が神を離れていく様子も聖書に書いてある。
サムエル記上8章の出来事だ。
短い章なので時間のある人は読んでみてほしいが、
ない人のためにかいつまんで言うと、
人々が王が欲しいとリーダーである預言者(神の言葉を伝える人)に
訴えて、神が警告しながらもそれを許すのだ。

神は訴えを聞いてこう答える。

……「民があなたに言うままに、彼らの声に従うがよい。……彼らの上にわたしが王として君臨することを退けているのだ。……今は彼らの声に従いなさい。ただし、彼らにはっきり警告し、彼らの上に君臨する王の権能を教えておきなさい。」

そして預言者は警告する。

……こうして、あなたたちは王の奴隷となる。その日あなたたちは、自分が選んだ王のゆえに、泣き叫ぶ。しかし、主はその日、あなたたちに答えてはくださらない。

人々はこう応える。

……「いいえ。我々にはどうしても王が必要なのです。我々もまた、他のすべての国民と同じようになり、王が裁きを行い、王が陣頭に立って進み、我々の戦いをたたかうのです。」

最後の人々の返答はすごく興味深い。
彼らが王に最も求めた役割は、
戦争のための統括者なのである。
旧約聖書の神は人に戦争を勧める神だ、
という批判を時折耳にするが実際は違う。
戦争のための統治者を望んだのはむしろ人間である。

神の民の存在が他の人々から脅かされる度に、
神は様々な方法でその民を救いだしてきた
(もちろんそれが戦争の形態を取る事はあったが)。
だから、神は人が人の支配下におかれるより、
自分の元に留まることを望んでいたのは間違いない。

神の民としてのイスラエル民族が、
王としての神を退けた時から、
地上には人に主権のある国家のみが存在するようになった。

主権在民も主権在君もその意味では同じである。
ただし、クリスチャンにとっては、
王が神か、神に従順なクリスチャンでない限りは、
個々人が主権をもてる在民の方が「まし」だろうな、
とは僕の私見。

*注1…新改訳だと29〜30節。

<僕の二つの国籍>


さて、ではそんな現状でクリスチャンである僕は、
国についてどう考え、どう生きていったらいいのだろう。

急に話がずれるように感じるかも知れないが、
映画「GO」で(原作は読んでいない、失礼)、
主人公の親友がこういう場面がある。

「僕らは国なんて持ったことありません」

主人公もこの親友も在日朝鮮人である。
「自分の属する国」が明確でない人、
言い換えれば「国を持たない」人の方が、
より国や、国と自分の関係について、
考える機会が多いのかもしれない。

映画の主人公は最終的に国の概念を超えて、
根無し草という自分(のアイデンティティ)を見出す。

では、クリスチャンはどこに自分の存在を見出すのか。

アメリカにはアジアン・アメリカンと呼ばれる人達がいる。
こちらにやってきて接する機会が増えた。
その中で見えてきたことがある。

アジアン・アメリカンとは、
日本を含めアジア各国から移住してきた人達とその子供達だ。
最初に移住してきた一世は自分達の
元の国のアイデンティティを持っている。
日本から来たなら、アメリカにやってきた日本人だ。
ところが、二世・三世になってくると違う。
アメリカで育つのだからアメリカ人のようになるが、
家では日本人である親の影響で育つから日本人のようでもある。
アメリカ人の「よう」だがアメリカ人ではなく、
日本人の「よう」だが日本人でもない。
じゃあ、一体何なのか?
誰しも一度は悩むそうだ。

そんな中でクリスチャンのアジアン・アメリカンたちは、
ある日気づくのだ。
「ああ、自分はアジアンとか、アメリカンとか言う以前に、
クリスチャンなのだ」と。

「地上の国の国民である以前に、神の国の民なのだ」と。

前置きが長くなったが、そういうことなのだ。
クリスチャンはまず神の国に在籍する。

聖書がそれを教えてくれる。

けれども、私達の国籍は天にあります。……(ピリピ3:20、新改訳)

地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。……しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。(ヘブル11:13,16、新改訳)


つまり、天にすでに国籍を持つ者として存在するのだ。

<集合体ではなく個人的な関係の重要性・神の国の到来>


天に国籍があるということだが、
実際は現在の生活にどう関係するのか?

天国に国籍があるものは、同時に地上でも神の国に生きるのだ。

…混乱させたかもしれない。

整理するために、「神の国」という言葉を定義してみよう。
これは「神が統治する人(人々)」だ。
国=人々だったんだから、この定義でいいと思う。

すると、天国はどうか?
もちろん神が統治している所なので、神の国になる。
言葉的に、神の国は天国も含む。
図にすると以下の感じ。


<あくまで言葉の概念図です>


さて、神の国とは「神が統治する人」である。
クリスチャンはそうである(し、そうあるべき)。
あなたが信じ始めた時、そこに神の国が始まるのだ。
一人一人から始まることなのだ。
国があって人がいるのではない。
人がいて国が始まるのだ。

イエス本人もこう言っている。

……「神の国は、人の目で認められるようにして来るものではありません。『そら、ここにある。』とか、『あそこにある。』とか言えるようなものではありません。いいですか。神の国は、あなたがたのただ中にあるのです。」(ルカ17:20〜21、新改訳)

クリスチャンは天において国籍を保証され、
地上においても神の国に生きるものなのだ。
神が統治者であり導き手であるものとして生きる。


最後に一つ加えておきたいことがある。
現在、多くの人は生まれるとどこかの国民になる。
(親が届け出て)「〜〜人」になるのだ。
日本人だったり、アメリカ人だったり。

しかし、人は生まれながらに天国人なのではない。
人が自ら神を退けて以降、

神は過ぎ去った時代には、すべての国の人が思い思いの道を行くままにしておかれました。(使徒14:16)

人は「それぞれ」が天国人にならない限り、天国人ではないのだ。
親がクリスチャンであろうと、無神論者であろうと無関係である。
個々人が選ぶのだ。
天の国籍を取得するのか、しないのか。(*注2)

*注2…改革派の友人から、「俺なら『選ばれた』って書くけどな」という指摘を受けた。その辺は各々の脳内変換でよろしくということで(笑)。

おわり



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