良心的な教会は大抵、教会のメンバーに「毎日聖書を読む」
ことをおすすめしていると思う。
何となくそれは熱心そうだし、悪いことではないだろう。
だが、別に読まなくても死ぬわけではないし、
何か罰を受けるわけでもない。
では、なぜ毎日読むのか?
そんな根本的な疑問を自分で生み出し自分で解決しようとする
地球に優しい(わけでもない)リサイクル・クリスチャン。
それが僕です。
ということで、幾つか考えてみた。
聖書の中に「毎日聖書を読め」という直接的な言葉は書いていない。
多分、そうすると義務的になって本質を見失うからだろう。
が、どうやらそうした方が(毎日読んだ方が)良さそうだ、
というのは感じられる。(*注1)
たとえばマタイの福音書4章4節に、一般的にも有名なイエスの言葉がある。
イエスはお答えになった。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある。」
どういう状況でこんなこと言ったかというと、
彼が四十日間断食した後で、悪魔に
「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」
と誘惑されたので、それに対する返答である。
腹ペコで言うセリフとしてはかなり命がけだが、
イエスはパンだけじゃなく、神の言葉が大切なんだ、という。
パン「だけじゃなく」というのが重要だろう。
当然パン(食べ物だな)も食べなきゃ死ぬ、
という基本ラインはさりげにおさえてある。
(当たり前と言えば当たり前だ)
と同時に、パン(食べ物)と言葉を対比しているということだ。
第一ペテロの2章2節で、やはり神の言葉に関する文脈で
生まれたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。これを飲んで成長し、救われるようになるためです。
と書いてある。
ここでは赤ちゃん用の「食べ物」である乳を、
神の言葉に対比してあると考えられるのだ。
ま、つまり「神の言葉=霊的な(スピリチャル)食べ物」ということ。
身体に必要な食べ物が「パン」だったり「乳」だったりするように、
霊に必要なのは「神の言葉」だ、というのだ。
そうするとですよ、あなた。
基本的にご飯は毎日食べるものです。
食べなきゃ身体は弱るし、あまりヒドイと命に関わります。
クリスチャンにとって、聖書を読まないってのは、
断食、ていうか絶食なんです。
弱るし、ヒドイ場合は霊的な命に関わります。
「わたし、最近クリスチャンになったばっかりで、
聖書読むの大変だから嫌なんですぅ」という人がいるかもしれないが。
最近クリスチャンになったって、それこそ赤ちゃんってことでしょ(*注2)。
生まれたばかりで絶食はチャレンジャーすぎるよ。死ぬよ。
まあ最初から難解な所を読む必要はないですが(*注3)、
福音書や詩編は字が読めれば読めるはず。
そんなわけで、読まないのは食べないのと一緒。
なので、毎日読んだほうがいいですよ、とおすすめされるのだ。
他の見方から考えてみる。
基本的にクリスチャンの人はよく祈る時があると思う。
祈るたびに読め、とは言わないし、
祈ること自体も聞くことを含むのでアレだが、
祈るのと聖書を読むのはコミュニケーションとして
セットで考えられるものだと思う。
自分だけしゃべって、人の話は聞かない人っているが、
…というか僕がたまにそうだが、
そういうのって相手に失礼だ。
話を聞きに来ている相手だったらまだしも、
愛する相手が自分の話を聞かないとか、
自分の話しかしない、というのは割りと嫌だろう。
神は人を愛しているので(*注4)、
一方的な関係より双方向性のある関係を喜ぶ、と思う。
祈るのは好きだが聖書は読まないというのは、
自分の話をするのは好きだが、お前の話は聞きたくない、
という状況に近いと思う。
もちろん、祈るだけでも神は喜ぶ、と思う。
愛する相手に話しかけられるのは嬉しいものだ。
若かかりしカップルはお互い自己アピールに必死(かもしれない)。
だが、円熟したカップルはむしろ相手を理解するのが大切だ。
聞くより話すことが多くてもいい。
でも神との仲が深まれば深まるほど、
耳をすますことにも時間をかけるようにできるといい、と思う。
神は世界一の聞き上手だと僕は思う。
でも、知りたいという思いを持って近づくものには、
知らせたいこともいっぱい持っている方だ、と僕は思う。
神に近づきなさい。そうすれば、神は近づいてくださいます。(ヤコブの手紙4:8)
そう、知らせたいことはいっぱいあるのだ。
最近はコンパクト版の聖書(字が小さいやつ)も増えてきたが、
聖書って基本的にめちゃめちゃ分厚い。
聖書は神のラブレターという表現があるが(*注5)、
あれ全部ラブレターとして一気に送られてきたら僕はかなりひく。
まあそれはあくまでたとえだが、
つまりはそれ程に伝えたいことはある情熱的な、
あるいは奥の深い方なのだ。(よく考えたら神だし当然だ)
実際にとてつもなく深いと僕は感じる。
脳みそによる哲学的な深さではない、
神の存在の深さだと僕は思う。
聖霊に導かれて読んで行く時(*注6)、
知れば知るほど大きさ広さ深さに圧倒される、そんな存在。
神のラブレターという表現をさっきあげたけど、
実際愛する人からのラブレターが手元に届いて、
「今日は疲れているから明日開けよう」という人はいない。たぶん。
もちろん「自分が聞きたい」ことが毎回書いてあるわけではないが、
少なくとも「神が知ってほしいこと」が綴ってあるのだと思う。
そういう意味で、このたとえはかなり一面の的を得ていると思う。(*注7)
だがしかし、神は紳士的かつ控え目な方でもある。
嫌がる相手に無理やり「おれの話を聞いてくれ」とゴリ押しはしない。
(聖書を)開ける開けないは決めるのは我々側なのだ。
そういう意味でも、お互いに励ましあうのも重要だろな、と思う。
すすめてくれる教会は本当に良心的だと思う。
神は創造主である。創世記にそう書いてある。
クリスチャンになる時、人はある意味大きな転換が必要になる。
基本的に聖書的な考えの中で育てられてきた人でない限り、
「神」っていうのは自分で想像していくものだと思う。
が、聖書は神が「人間が想像してできたもの」ではなく、
「人間を創造したもの」なんだよ、と教えている。
これって気づかない人も多いが、信じる時に確認すべき重要事項だ。
ところが、たとえ確認したとしても、
あるいは最初から聖書信仰の環境で育った人でさえも、
やっぱり徐々に自分の想像が神を形作っていってしまうのだ。
つまり、自分用の「神様像」ができていってしまう。無意識に。
それってまさに聖書が警告する偶像信仰。
聖書を毎日読むのは、この傾向に対抗するいい手段だ。
毎日「聖書の」神(を我々クリスチャンは信じているわけだが)を、
確認していくことができる。
徐々にずれていくイメージをもう一度直していく事ができるのだ。
部分的に読むよりも、通読(一部でなく聖書全体を読み通すこと)が
すすめられるのは、同じ理由によってだ。
つまり、聖書は全体で理解するものなので、
一部だけから神を知ろうとしても、
それは当人(神様)とはずれた、 歪んだ神像になってしまうのだ。
聖書を毎日の生活の中に根づかせることは、
神の世界観(神の世界の見方)や価値観の中に
生きることができるようになる方法なのだ。
神と共に笑い、共に泣く、そんな共同生活。
面白いことに、祈りつつ聖書を読むことが毎日続くと、
徐々に生活の中で読んだことが意味を持ってくる。
「あ、こういうことだったんだ」
とか
「あ、こう考えればよかったんだ」
とか、色んな場面で聖書と生活がリンクしてくると思う。
これは実際やって分かることですが、幸せなことだ。
(本編は以上です。以下は文字通りの余談です。)
一回まわりにいるクリスチャン達にアンケートとってみたいな。
今通ってる教会(ニューヨーク日本語教会)で、
一年で通読(全部)するために、一日読む分量が割り当てられた
聖書(ワン・イヤー・バイブル)を有志で読み始めた。
ちょっと見せてもらったが、大体一日3章くらいか。
これって実際やってみるとかなり大変だと思う。
特に読むこと自体に慣れてない人は大変だろう。
でもできたらすごくいい。やり遂げてほしいことでもある。
ちなみに僕は、中学生の時に毎日読むのをすすめられ
「よし、毎日読んでみよう」
と思いたち、実際一日一章ずつ始めてすぐ挫折した。
が、翌年またすすめられたので、
今度は少し賢くなり、「ほんの少しずつだが毎日」
ということにして読み始めちゃんと続いた。
その頃どれくらい読んでいたかは正直覚えてない。
10節とかかな…。
学年上がって単純に文章が読めるようになってきて、
また慣れるにつれて、少しずつ一日の量は増やした。
高校か大学の頃に、とある牧師が一日六章だか八章読む
というのを聞いて、意味もなく対抗心を燃やして、
それくらい読むようになった。
非常によくない動機である。
が、まあかなり聖書が全体的に分かるようになったので、
動機はともあれよかったな、と思う。
今現在どうかというのを参考までにいうと、
旧約の詩編前までから一章、詩編一篇+119編の一区切り毎、
詩編後から一章。
新約を福音書の(新共同訳聖書の見出し区切りで)一区切り×2、
使徒以降の一区切りを一つ。
ということで、大体一日4〜5章だろうか。
多いかどうかは他の人がどうか知らないので分からない。
僕は国語的にも読むの得意だから多い方かも知れない。
まあ量が多くても何の自慢にもならないが。
読むのを習慣にする僕なりのコツは、
1.読む時間を最初から一日の予定に定期的に組み入れる(僕は夜寝る前)
2.ややこしい時や眠くてたまらない時は勇気を持って斜め読み
3.定期的に決めた読むための時間では、決められた量以上は読まない
(余裕のある時も、余裕のない時も同じ量、というので、
なぜか僕は心理的に安心する。)
まあ、何度か試みたが挫折したという人は参考にしてください。
あと、よくあるデボーション雑誌(読む聖書箇所と解説が載ってる)だが、
あれはあれでいいと思うけど、
どうしても雑誌ごとの解説の傾向があるので、
あれとは別に自分だけで聖書と向き合う時間は
別に作った方がいいだろうな、というのが率直な私見。
一番やっちゃいけないのは、聖書本文は読まずに
解説だけ読んで聖書読んだ気になっちゃうこと。
逆はいいけど、それだけはダメだと思う。
*注1…ここから先、聖書=神の言葉、という前提でお送りします。なぜかって?僕がそう信じているからです。
*注2…クリスチャンは信仰を持って、いわば新たな人生をはじめるわけです。(ヨハネ三章のニコデモの辺り参照)
*注3…ヘブライ人への手紙5章12〜6章2節も参考にしてみてください。「乳を飲んでいる者はだれでも、幼子ですから、義の言葉を理解できません(13節)。……キリストの初歩の教えを離れて、成熟を目指して進みましょう。(2節)」
*注4…これ(神は人を愛している)も前提でお願いします。
*注5…「JOY」という聖書の学びのための市販されているテキストで僕は初めて聞いた。面白いたとえだと思った。ちなみにこのテキストは個人的におすすめ。
*注6…この辺は「聖書を見る」も参考にしてくれるとありがたき幸せ。
*注7…この「愛する相手から…」というたとえは、まんま上記の「JOY」で使われていたたとえです。
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