2001年中国の旅(後編)

七日目「2001年5月2日」

今日はキジル石窟に行く。いつも通りバスに乗って出発。

9:45 塩水渓谷を通る。アルボラックのごとく岩山に挟まれた谷間なのだが、 細々と流れる川を見てその名を納得。白い水が流れている。


<塩水渓谷>

まもなく塩水渓谷烽火台が見えてくる。岩壁に張り出た所に二つ烽火台がのっている。 ぐるっと見渡すと、なるほど岩壁と岩壁の間を通してかなり遠くまで視界が通る場所に立地している。


<烽火台(左右に一つずつ)→烽火台右のやつ近影>


10:30 渓谷を抜けてしばらく行くと、ラクダが10匹ほどはしゃぎまわっている。 子供もいるから群れなのだろう。あの体躯でじゃれあう様はかなりの迫力だ。 ちなみにこの中央アジアのラクダは二こぶラクダ。エジプトが一こぶラクダだ。

10:45 ムザルト川が見えるとすぐキジル石窟に到着。 キジル山のふもと、ムザルト川の北岸に立地した石窟群がそれだ。 キジルは「赤い」の意味で、晴れた日は山が赤く見えるのだという。


<キジル石窟>


12:25 二時間近く待たされ、やっと見学開始。カギをもったガイドがくるまで待たなければならなかったのだが、 ここに限らず新疆は長澤先生の言葉を借りると「悠久の時間」に生きているせいか、 日本人の僕には焦れてしまうほどのんびりした所がある。
待っている間本を見ていたら、そんなつもりはないのにたくさん買ってしまう。
さて、見学が始まる。たどたどしい日本語でガイドのお兄さんが解説してくれる。 本来、前室、中室、後室に分かれているそうだが、地震の影響で前室は崩れていて、残っているものはほとんどないようだ。
内部は部分的にはがれたり削られたりしているけれど、全体に壁画で覆われている。 簡単に言って、中室には仏の「現世」が描かれていて(因縁図とかね)。 後室は「あの世」をあらわしているのだそうだ。中室から外に出る壁には弥勒が描かれていることがある、 なぜなら次の仏陀候補が弥勒だからと言うわけだ。
全部で9室を見て回った。

16:22 次はクズルガハ烽火台に向かう。川岸の崖の上に立つ烽火台。 東北に約1km行ったところにクズルガハ千窟洞が見える。北は小さな丘が並び、南は荒原と、東西に横切る川が見えるだけ。
烽火台胴部には所々穴があいており、その内半分くらいからは木材の根元が突き出ている。 スロープは着いていないので梯子かけだった可能性が考えられる。頂上部分から木組みが張り出しているのが見える。 上には活動スペースが作られ、荷物などは滑車などを使ったようだ。
見学していると、中国人の観光グループと思しき人々がやってくる。 罵声のごとき大声で叫びあっているので、ケンカしているようにしか聞こえないが、 別にそうではないらしい。どういうわけだが知らないが、多くの中国人は怒っているような声で話す。 感情表現豊かなのだろうな、きっと。それともいつも本当に怒っているのかな…。


<クズルガハ烽火台>


16:53 クズルガハ千窟洞に到着。着いてみると他の日本人の観光ツアー客達がいた。 定年退職後の人々だと思う。おばさんたちが大声でしゃべりながら歩いている。別に大声は中国人に限らないことに気づく。 どうでもいいことだが、こんなユーラシア大陸のど真ん中でも日本人の観光客は多い。 ゴールデンウィークと言うこともあるのだろうけど。
そういえば、5月1日から7日はこちらでも休暇だそうだ。
我々にはこの石窟のガイドがいなかったので、その日本人ツアーのガイドさんに頼んだ。 キジル石窟のお兄さんに比べると、非常に分かりやすい日本語を話すお姉さんだ。 でも長澤先生から説明を訂正されてタジタジになっていたのは一緒だった。かわいそ。先生プロだもんなぁ。
石窟は6つ見て回った。得た知識が多すぎて書ききれないので書かない。


<クズルガハ千仏洞>


19:40 ホテルに帰り着く。食後、バザールに行かないかと誘われるが、 写真をまとめる仕事が大量に残っていたので断る。今思えばこれが次の日の悪夢の序章だったようだ。

八日目「2001年5月3日」

なぜか早くに目覚めてしまったので、朝の散歩にでる。
防風林の並ぶ街道をトコトコ歩いていると、ロバや馬の馬車(ロバ車?)をよく見かける。 馬は本当に「コパコン、コパコン」という蹄の音をさせて歩く。ロバは静かに歩く。 ロバは止まっている時は、壁に顔を向けて立ちつくしているので、暗い性格のように見える。 勝手にそう思うだけだけれど。
時間になったのでホテルに戻って朝食。出発。

10:10 クチャ大寺に来る。イスラム寺院。正面から見た感じは、ドームのあるよく見るモスクだが、 中に入ると木造の礼拝堂が別にある。木造なので変な感じがしたが、ミフラームのついたきちんとしたモスクだった。 天井の装飾が見事で、質素だが立派だった。一度焼失しており、今のものは1929年の再建なのだそうだ。
管理人一家が敷地内に住んでいた。まだヨチヨチ歩きの赤ん坊がいた。 典型的なウイグルスタイル(衣装とヒゲ)のおじいさんと、お父さんに遊んでもらっていた。 赤ちゃんのズボンは前も後ろも股の部分が裂けている(そういうデザイン)、確かにこれならオムツはいらない。

11:00 続いて土器工房の家に行く。普通の民家の庭みたいな所だったが、窯が4つとロクロ小屋があって、 土器の製作過程を一望できた。粘土を足で荒く練って、小屋に持っていって手で練る。電気ロクロを使って、 鮮やかに土器を整形していった。庭に並べておいて乾燥させてから、窯焼き。
これは是非ビデオにおさめなければと思い。ビデオを持ち出すと、子供が群がってきた。大人も群がってきた。 単純に感動する人々を見て、単純に感動を覚える。
見学を終えて出ると、隣の家がナンを作っていた。焼きたての、でかい円盤形ナンをイリさんが買ってくれた。皆で食べる。

11:45 クチャ県歴史文物陳列館(長い名前だ)に到着。中は土器や石器、玉器などを置いてある部屋、 民族衣装や楽器などを扱う部屋、古代貨幣を扱う部屋にわかれて展示してあった。隣の小学校らしき建物の方からは、 運動会をやっているらしく歓声が聞こえてくる。

12:55 クチャ故城南壁着。移動中に「クチャ故城ってどこですか」と聞くと「ここ」と言われた。 もともと故城があった土地に人々は普通に住んでいるわけだ。
壁よりも、辺りの緑と、壁の脇でトランプをしているおじさん達と、タンポポが印象に残った。
いったんホテルに戻って、休憩。

16:00 出発。この後本屋、バザールにいって、悪夢のような迷子になる。
詳細は宮里氏編集の別紙を見てください。

ということで、このエピソードは面白い(ひでえ)と言って宮里さんが僕の文章と、ラルゴの文章(宮里アレンジ)をあわせて さらし者にしたものが残っているのです。こちらをご覧ください。
「ショリーの遭難」

九日目「2001年5月4日」

新疆での活動も残す所2日になった。今日はコルラに行く。距離にして260km。どこから得た情報かというと、 宮里さんの操るGPS(カーナビみたいなもの)からだ。
日本を出る当初は、英語の取扱説明書に誰も手をつけず、邪魔者扱いされていた哀れなマシンである。 新疆に来てから宮里氏は新しいおもちゃを手に入れた少年のごとく熱中していた。 氏によって生命を受けたGPSは、実は優れものであることが分かった。誇らしげに語る宮里氏によると、 衛星をキャッチしてそこから情報を得るものらしい。見た目は貧弱なのに大したものだ。

なお都合により詳しく書けないが、とある故城跡を見学に行った。


<とある故城へ都合により歩いて向かう(はるか奥に故城跡) → 故城は壁(手前)や烽火台(奥)の一部が残るだけ>

18:35 行きは遠目で見ただけのコルラに到着、すぐに博物館に向かった。
博物館は古ぼけたデパートのような建物の5階だった。中に入ると、ますます古ぼけた展示室が二つ。 一つは円州出土文物精品陳列展(長い!)なるもので、まあ文字通り周辺地域の遺物が並んでいる。
もう一つは楼蘭展示室だった。ローラン。展示品に最近の発掘のものはなかったが、 人気の高い遺跡であるのが納得できるものだった。楼蘭故城西北のエイボン遺跡からは布製品や、 木製の机、盆、杓など。楼蘭からは銅製品、石製品などが中心に展示されていた。
なかでも漢代の銅製ボタンは初めて実物を見た。デザインが何種類もあって、学生服の金ボタンみたいなものを見ると、 「こんな頃からあったのか!」とびっくりする。
みんなが玉器や銅製品に見入っている間、僕は展示パネルを見て回っていた。 勉強不足がバレバレだが、楼蘭の住居址は木材がふんだんに使われており、今も木材が残っていることを知る。 ここまでぼくが見てきた遺跡では木材はあまり目にしなかった(烽火台の幾つかだけ)ので、不思議に思った。 先生が言うには大抵の場所では木材を利用して建てたが、人が来られる所のものは持っていかれて使われてしまう。 楼蘭まで行くやつは少ないから大丈夫なのだろう、とのことだった。
以前通過した孔雀河(クンチダリアン)に沿って楼蘭故城はあったのだが、 今ではダムのせいで河が干上がっている。故城は乾燥した砂漠の真ん中に残されている。

20:10 ホテルに着く、非常にきれいなホテルだった。ただ、シャワーを浴びる時にバスタブのようなものが存在しないので、 辺り一面水浸しにして、「後から入る宮里さん、かわいそうに。」と思った記憶がある。思っただけで何もしなかったが。
食事の後、近くに服を売っている所がないかと周辺をうろつく。なぜそう思ったのか今でも理解に苦しむが、 僕は日本を出るとき「ジーパンひとつで大丈夫だろう。」と思っていたらしく、他にはく物はなかった。 しかし、時間が遅かったせいか空いている店もなく諦める。

十日目「2001年5月5日」

今日はまた昨日と同じくらいの距離を移動してウルムチへ。 特に止まって見るような所もない。アクバルさんとは朝別れて出発する。 これから輪台で調査があるそうだ。再見、アクバル・ニヤーズさん。
バスは行きに見てきた景色を逆回しにして走っていく。ボストン湖、開戸川、アルカリ大地、オアシスの村々。
感慨に浸っていると突然、後ろに座っていたのび太が「これ写真に撮って」という。何かと思って見てみると、 狭い座席の中に足を組んで横になるというファンタジックな格好で寝ている中条氏だった。日を重ねるごとに大胆かつ、 複雑化していく氏の寝方もここにきて頂点を極めたようである。
昼頃カザフ族の遊牧民が馬に乗って羊をおっていた。布のような薄っぺらい鞍にまたがっていたので驚いたが、 後で中条氏に聞くと「天山の北側では鞍なしで走っているカザフ族をたくさん見た」そうである。 あ、またラクダが群れで暴れまわっている。

14:15 トクスン県のクーミースなる所で、バンミェンを食べる(例の焼きうどん)。 「ここら辺はバンミェンの一番おいしい所と言われている」と長澤先生。お言葉どおり。

16:16 アルボラック渓谷を抜けると、急に視界が開けてトルファン盆地が広がっていた。 途端にすさまじく暑くなる。盆地だからだろう。遠くに見える緑のトルファン市に入れば少しはましになるのだろう。
そうそう。ここにくるまでに道沿いの家々を見ていたが、コルラからこっち(東側)では木材や(多分)葦を干したものを建材、 囲いなどに使っている。昨日の楼蘭のことを思い出した。もっと西の方から注意して見ておけばよかったな、と少し後悔した。

18:12 塩湖が見える。ウルムチまであと少し、新疆の旅もあと少し。
列車が走っているのが見える。来る時は貨物列車ばかりだったが、今日のはどう見ても客車だ。連休だから特別編成なのだろう。

19:23 ウルムチのホテルに着く。食事まで少し時間があるので、服を買いに行く。 クチャのバザールを見て回っていて、かっこいいスーツが多いことに気づいていた僕は、 ここウルムチにもそれがあるであろうと予想していた。
あった。気に入ったデザインのスーツを見つけサイズを見てみると、「M」とある。アバウトすぎるだろ、 とは思ったが自分は「M」と信じて買う。店のおばさんは親切で、 身振り手振りとテレパシーだけが頼りの僕の考えを読み取って商売してくれた。

十一日目「2001年5月6日」

ついに新疆を離れる日が来てしまった。名残惜しいと思う反面、これ以上いると疲れるだろうな、とも思う。

8:50 空港に着き、運転手のクォさん、イリさんとお別れ。 イリさんは握手して僕らが中に入ったと同時に姿を消していた。早く帰りたかったのだろう。 連休をつぶしていたのだから当然と言えば当然かもしれない、ありがとうイリさん。

10:12 飛行機離陸。今までで最高に晴れた天山が機内窓から見える。

13:15 北京空港到着。まずは京倫飯店というホテルに荷を下ろし、ルリチャンという骨董街に向かう。
古銭屋は残念ながらしまっていたが、古書店、うさんくさい骨董市場をまわる。

18:00 友誼商店という土産物デパートに到着。ここまであまり機会がなかったので、 みんなここでお土産を買い込む。人に物を贈るという感覚の著しく欠如した僕は、必要最低限の物だけ買うと、 後は自分のためにCDを買いに行く。

19:50 学生達が帰国した後も交渉のために残る先生達は、連絡のため後藤氏と行動。 残りの学生達で王府井(ワンフーチン)という繁華街に来る。「夕食の店はショリー(僕のこと)が決めてね。」 ということになったが、PIZZA HATをボソボソと主張するM氏のプレッシャーに耐えかね。そこで食事をする。
北京は栄えている。夜も明るい近代都市だ。でもホテルの近くの道端には物乞いの人達が一定距離で座っている。 社会主義の理想は遠い。

23:30 最後の晩ということで先生方の部屋でミーティング。

十二日目「2001年5月7日」

今日の夜には日本に着いていると思うと変な気持ちだ。情報の凝縮された12日間だった。

8:50 ホテルを出発。慌しく後藤さんとお別れをしてタクシーに乗り込む。後藤さんお体大切に、これからもがんばってください。

9:00 考古書店という専門書店に来る。もう買うものないだろう、と言っていた中条氏は 「もうこれ病気ね」と変なアクセントで言いながら本を買いまくっていた。僕も荷物に入るか心配しながら数冊買ってしまう。

11:55 先生達と別れ、空港に着く。大変お世話になりました。
チェックインして中のレストランで食事をする。ここに限ったことではないが従業員の数は明らかに過剰である。 「雇用のためだよ。」と後藤さんが言っていたのを思い出す。別に悪いとは思わないが、暇そうだなとは思う。

14:29 飛行機搭乗。さよなら中国。

18:55 成田着。旅おわる。

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