2006年1月17日追記
最後のポイント、24節以降を見ていこう。
前回の話から少し時間がたった後のお話。 次のように書いてある。
十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」
理由はわからないが、とにかく弟子の一人のトマスは、
イエスが来た時に一緒にいなかった。
で、イエスに会って喜んだ他の弟子たちが
「わたしたちは主を見た」といっても、
十字架刑の傷跡を見て、なおかつ触ってみなければ、
「決して信じない」と言い出した。
かなり強烈な拒否だ、これ。
僕だったら傷跡を見るだけでも嫌だが、
傷の穴に手を入れなきゃ信じない、ってスゴイ発想だ。
トマスはそこまで強烈に信じないと言うのだ。何でだろ?
彼はどういう人なんだろう?
なぜここまでひどく信じるのを拒否するのだろう?
で、気になったので、トマスが出てくる他の所も見てみた。
すると、結構面白いことがわかってきた。
同じヨハネの福音書から見つけた。
ヨハネの11章。
ここはラザロという人が死んで、
それをイエスが生き返らせる話の最初の部分だ。
そこでイエスは、はっきりと言われた。「ラザロは死んだのだ。わたしがその場に居合わせなかったのは、あなたがたにとってよかった。あなたがたが信じるようになるためである。さあ、彼のところへ行こう。」すると、ディディモと呼ばれるトマスが、仲間の弟子たちに、「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」と言った。
詳しい説明は省くが、このトマスのセリフ、
「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」
という熱いけど、イエスがやろうとすることを理解してない
どこか間抜けなセリフから分かることがある。
つまり、彼は、イエスに対して
自分の人生をかけてこの先生に従っていこう、
と熱く燃えていた人ではあったのだけど、
まさか「神であり、命を扱えるような方だ」
とは分かっていなかったんだということだ。
別に相手が神でなくても、すごく魅力的でカリスマ的な人間がいると、
必ずその人のまわりには「兄貴と呼ばせてください!」とか
「一生あなたについて行きます!」とか「あなたのためなら死ねる!」
とかいう人が出てくるもんである。
トマスはそういう人だったようだ。
でも、イエスがまさか人を生き返らすとは信じるどころか、
理解もしていなかった。
トマスはイエスに心底惚れ込んでいた。
その彼がいない時にイエスは他の仲間達の元に現れたのだ。
予想できる反応は二つ。
一つ、「なんで俺がいない時に来るんだよ!
俺のことはどうでもいいのかよ、先生!」。
もう一つは、「いやいや、君達、復活はさすがにないだろ、無理だろ。
先生は素晴らしい方だったよ。でも、もう全部終わったんだよ…」。
僕の推測でしかないが、両方混じった気持ちだったのではなかろうか。(*注1)
そんな彼に奇跡は起こるのだ。
続けて26節。
さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中にたち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。
またイエスが来た。
今度はトマスもいる所だ。
そして三度目の平和の挨拶。
そしてトマスに向ってこう言うのだ。
それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」(27節)
イエスはトマスが言ったことを知っていた。
そして、そのままのことをやってよい、という。
トマスの悲しみと怒りを打ち破るような言葉だ。
トマスの反応。
トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。(28節)
彼は「わたしの神」と言うようになった。
「なんで俺がいない時なんだ!俺は仲間はずれか!」
というトマスに対するとても個人的な暖かいイエスのフォロー。
トマスは「わたしの」とう個人的な関係を回復した。
「いや、さすがに神は無理だろ。復活はないだろ。」
というトマスに対する有無を言わさぬ本人登場。
トマスは「神」と信じる者になったのだ。
そして最後のイエスの言葉。
イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は幸いである。」(29節)
トマスはイエスを信じて平和を得た。
これが三つ目の平和なのだ。
トマスは平和ではなかった。
怒りか悲しみ、あるいはその両方に震えていた。
なぜ俺のいない時なのか!
彼は死んでしまったのだ…。
イエスとの関係は完全に消滅していた。
面と向き合う現実的な関係も、個人的な信頼関係も失っていた。
その彼が信じて得たものが平和なのである。
イエスへの信仰と、それに伴う神との関係の回復、
怒りと悲しみからの開放、これが三つ目の平和の意味だ。
内面の平和は、様々な関係に対する不審から生まれる
怒りや悲しみなどによって壊されていく。
意識されていてもされていなくても、平和は奪われていることが多い。
関係の崩壊は平和の崩壊の基であるとも言えると思う。
人と人、国と国、しかし何よりもまず神と人との関係の崩壊こそが、
最初のそして修復すべき平和の崩壊なのだ。
まとめてみる。
平和は、永遠の命の保証。人間の存在の保証を受けること。
平和は、神が共に生きるという約束。
平和は、信仰に基づく神との個人的関係の回復。
*注1…トマス君の解釈(というかこの辺の聖書箇所の解釈)は色々あります。これはあくまで僕の考えですよ。
キリストの平和シリーズはとりあえずこれで終了。
全体としても、まだ書こうと思っていることはあるのだけど、一応は一区切り。
でも、いつか続く…。
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