「クリスチャンと国家」

国って何だろう?
その中の僕ってなんだろう?
クリスチャンとして僕はどう考えればいいのだろう?

ちょっと長くなっちゃったので、
二ページにしました。

<長めの前フリ、あるいは僕の留学した理由>


僕は日本が好きだ。
ものすごく好きだ。
この国が好きか?
と問われたら自信を持って答えられる。
好きだ。

たとえ問題点、欠点を指摘されようとも
ひるまずに言うことができる。好きだ。

なんで好きなんだろう?
「好き」であることに理由なんてないというのは、
怠慢でしかない、という名言を最近聞いたので(*注1)
その理由を考えてみることにしよう。


僕がアメリカに留学してくる前、
とある留学準備の予備校にしばらく通っていた。

確か会話訓練のための授業の時のことだ。
アメリカ人(だったはず)の先生が質問してきた。

「何であなたは留学したいんですか?」

僕はたどたどしい英語に劣等感を覚えながら答えた。

「それは、そうすることが僕がこの国のために、
役立てるようになるのに有益だと思うからです。」

いつもニコニコしている先生が真面目な顔になって答えた。

「ここで先生をしてきて、その答えは初めて聞きました。
それは、おもしろいですね。なるほど」

僕は確かにその時に「この国」という意味の言葉を使った。
しかし思え返せば、その意味は「この国の人々」だった。
そう、僕は「国」とは「人々の集まり」だと考えているのだ。

僕はこの国が好きだ、という時、
それは「この国の人々が好きだ」という意味でもある。
実際そうなのだ。
僕は日本人が好きだ。
他人事のような書き方だが、
日本人のパッとしないダメな所も含めて、
全部好きなのだ。愛しく感じる。
そしてそんな人々(悪人も善人もひっくるめて)の
集まる日本が好きなのだ。

アメリカに来てはじめて、
日本の風景が懐かしく感じるようになったが、
それはまた別の問題。
郷愁とかそういうもんだと思う。
それとは別にこの(日本の)民が好きなのだ。

そしてこの人々のために何かしたいと思う。
この人々にとっていいことを何かしたいと思う。
「いいこと」が何かは人によって基準が違うだろう。
だからそれは僕が「いい」と信じるものに過ぎないが。
そして僕にできる最善のことは、
聖書の福音を知らない人々(実に国民のほとんど全て)に、
それを伝えていくことだ。
それ以上にいいものを僕は知らない、と信じているから。

留学はそのための準備だ。
外国に行くことことで、伝えるべき相手(日本)が
どういうものなのか今までとは違う視点で見られる。
同時に方法として牧師になるのが僕には一番よかろう、
と思ったので神学校に行く必要があった。
アメリカを選んだのは、(一応)神学の先進国だからだ。


こういう批判を受けるかもしれない。
「好きなのは日本人だけなの?
外国にも福音を待つ人々がいるでしょう?
外国人は嫌いなの?
日本にいる外国人はどうなの?」

僕は人間は基本的にみんな好きである。
が、日本人(*注2)には特別な思い入れがあるのだ。
それは多分、日本で生まれ育ったからだと思う。
福音を待つ人に伝えるなら基本的に誰に伝えてもいい。
それはその通りだと思う。
でも、生まれ育ったのが日本で、思い入れがあるのに、
わざわざ他を選ぶ方が不自然だと思う。
そういう単純な理由だ。

さらに言うなら、自分の伝えやすい人からまず伝えたい。
人間一人の人生は全ての人に何かを伝えるのにはあまりに短い。
それならやはり近くにいる人からはじめたい。
単純にそう思うのだ。

一番近くの人たち。まず伝えたい相手、
それが日本の人々なのだ。

僕が違う環境で育っていればまた違っただろう。
でも、僕は僕であり、「もし」はない。

前フリが長くなってしまい、しかも少しズレたが、
国=人々の考え方について考えいこうと思う。

*注1…ここ。わずか三ページの珠玉マンガ。このページだけ読むとギャグみたいだが、前後のページも読むと面白い。直リンクで失礼。
* 注2…ここでは仮に国籍ではなく、日本語文化の影響下で育ったものとする。あるいは日本語を第一言語とするものとする。

<聖書の中の「国」のはじまり>


僕が「国=人々」と考えるのは、単に
「日本を好きという時、日本の人々を好きという意味だから」
である。
が、面白いことに調べてみると聖書的にも的外れではない。

聖書ではじめに「国」という言葉が出てくるのは、
おそらく創世記10章5節だ。
洪水で世界が滅びて後、ノアとその子孫から国が広がった。
そこにはこう書いてある。

海沿いの国々は、彼らから出て、それぞれの地に、その言語、氏族、民族に従って住むようになった。

英訳も見比べると分かりやすいかもしれない。
「言語」は「tangue」。舌だ。
ちなみに「母語」を「mother tangue」という(順が逆か)。
「氏族」は「family, clan」。
「民族」は「nation, people」。

そして面白いことに、「海沿いの国々」の「国々」も
ここで「民族」と訳されている言葉と同じなのだ。
(ヘブライ語で「ゴーイ」という音の言葉)

つまり、もともと旧約聖書では民族と国は同じ言葉なのだ。
乱暴に言えば「国=民族」と言ってもいい。
つまり僕の言う「国=人々」に近い。

同時にこの聖書箇所から、
国=言語別の人々、国=家族・部族・氏族別の人々、
ということも言えるのだと分かる。
でもいずれにせよ人々なのだ。

人の集まり、それが国なのである。

つぎのページへ続く…。


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