祈りは信仰の本質


「お祈りって(具体的に)どういうことをするんですか?」
という質問はたまに聞かれることはあるが、
「お祈りって何?」と聞かれることはめったにない。

大抵みんな知っているのだ。

…おそらくこう理解している、

「神(あるいは対象)への人間からの語りかけ(もしくは嘆願)」。

教会でも「それが祈りだ」と言っていいと思う。


聖書のごく初めの方、人間の歴史のごく初めにこう書いてある。

「主の御名を呼び始めたのは、この時代のことである。」(創世記4:26)

神と共に住んでいた園から出てしばらく後、
人間達は神に呼びかけるようになったのだ。
これが祈りの始まりだろう。
つまり、神に作られた人間は当然のごとく、
神から離れても神を求めて呼びかける習性がある。
それが祈りなのだ。

聖書によれば祈ることはごく自然なことなのだ。
それが何かを説明するまでもない。

とはいえ、さっき上で
「神(あるいは対象)への人間からの語りかけ(もしくは嘆願)」
と書いたが、この(  )内にあるものが、
いわば聖書的な理解とは違う部分だ。
この辺についてはどう違うのか説明させてほしい。

<祈る対象>

「鰯(いわし)の頭も信心から」というコトワザがある。
魚の頭だって信じればすごいものに思えてくる、という意味。
実際祈ろうという時に魚の頭に向って祈り始める人は
そんなに多くはないとは思うけど、
何かしらの対象に祈ることが多いと思う。
祈るというか、念じるという感じか。

あるいは人によっては、自分に向けて念じるような場合も
あるかもしれない。
まあいずれにせよ虚空に向って祈るということは、
突き詰めて考えればないだろう。
(だって意味ないもん)

クリスチャンにとって祈りとは、聖書の神が対象になる。
相手が誰でもよいという事はない。
想いが何かを変えるとかそういう話でもない。
(もちろん何かを強く想うことで、
何かが変わることはあるだろうけど、
それはここで話している祈りとは別の話)

「天の父なる神様」と呼びかけて祈り始め、
「聖霊によって」導かれて祈り、
「イエス・キリストの名によって」祈り終える。

まあ別に上の通りの言葉で祈る必要は全くないが、
ようは聖書に啓示(神が示した)された神に祈るのだ。
それが祈りだ。

<嘆願>

「苦しい時の神頼み」も有名な表現だ。
実に人間の本質を突いた言葉だと思う。

でも特別に苦しいときでなくても、
神(あるいは他の対象)に祈るときは、
基本的に何か助けてほしかったり、
何かしら願いを聞いてほしい時だろう。

一般的に「お祈り=お願い」という感覚があるのじゃなかろうか。

でもこれはクリスチャンは気をつけなければいけない感覚だ。

祈りはコミュニケーション。
神を呼び求め、神との関係を取り戻すこと(持つこと)、
それ自体が祈りだ。

神に出会った時にまず何が起こるだろうか。
それは神の前に立つ畏怖であり、驚嘆だ。
人は神に出会った時、びっくりして、へりくだるのだ。
そして神を賛美する。たたえる。
(この辺は「しっかり拝めよ」も参考になるかも)

そして、人間である自分が神と共にあることを喜ぶ。

普通に考えるとそうありたいものだが、
実際は神に対して祈っているという意識もなく、
「あれをやってくれ、これをくれ」
と願いをいきなり投げつけることもある。

これは実際神の立場で考えたら、かなり感じ悪い。
久々に訪ねてきた人が、挨拶無しに「金を出せ」というようなもの。
あんた、なにさま?

神は偉大なので、願いが多くなるのも仕方ないが、
その願いの中身があまりにも人間中心で、
神中心のキリスト教信仰からかけ離れている場合が、
教会でも簡単に起こりえる。

クリスチャンの神は、普段は天国での自分の生活に忙しく、
人間が困った時だけ仕方なく出てきて助ける存在ではない。
いつも人と関わりを持っていたいと思っている神なのだ。

願うときだけ出てくる神ではない。
いや、もっと言うなら「こっちが祈る時だけ」出てくる神ではない。
いつもいる神であり、人は本当は祈るように生きるべきなのだ。

<祈ることと信じること>

急に話が変わったように感じるかもしれないが、
しばらく我慢して以下を読みすすめてくれると嬉しい。

信仰は当然のごとく信じることから始まる。
信仰は理解するものではなくて信じることだ。
もちろん何を信じるのかを聞く(知る)必要はあるが、
聞いた後は、信じるか信じないかの世界だ。

多くの人がこれに気づいていない。
そして、キリスト教を「理解」しようという、
実はかなり虚しいことをしてしまうのだ。
そういう意味でキリスト教は実に単純なのだ。

しかし同時に実に深い。
それは「信じた」ものが見る世界の深さである。

そんなこともあって…、
僕は初めて聖書やキリスト教に触れる人に対して、
その人が積極的に聞いてくれる人ならば、
早い段階から祈ることを勧めている。

祈るということは、相手の存在を認めることなので、
(認めていなければ虚空に語りかける危険な人だ)
いわば信じることのはじまりになるからだ。
だから、矛盾を含む言い方だが、
「嘘でもいいから信じて祈ってみてくれ」
と頼んで勧めている。

信仰は思想ではなく生き方だ。

そんなわけで…、
もしこれを読んでいるあなたが信じたことのない方なら、
ぜひ祈ることを初めてほしい。
難しく考えることではないので。

人は自然に神を求めることを知っているのだ。
呼びかければ神は聞いている。
何かを言わねばと焦らなくても、
呼びかけ、神と共にそこにいる時を楽しむ、
それだけでも十分なのだ。

もしあなたが祈ることを始めたならば、
それは新しい(そしてかつてなかった)関係のはじまりなのだ。


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